私のPC履歴書(その1)

Sep. 27, 2002


最近は論文書きや学会発表準備に追われてハードウエアとじっくり格闘する時間がない. メインマシンのTualatin Celeronへの換装工事は未だ凍結したままだ. おまけに怪しげなパーツ購入に対するモチベーションも下がってしまっている. 近々大阪方面に出かける予定になっているので,何か面白そうなトピックを探すために 日本橋でんでんタウンに足を運ぼうと思っている.

巷のPCはPentium4一色になってしまい,全く面白みに欠ける. 雑誌の自作関連記事もPen4マシンを如何にして組み立てるかということを中心に書かれており, またまたIntelの一人勝ちの様相を呈している. ThunderbirdコアのAthlonが流行っていた時分には, どちらかと言えばAMD陣営の方が活気があった. このままでは,Athlonはおろか筆者の一押しであるVIA C3の行く末が心配だ. VIAにはIntel勢力に屈することなく,何とかC3の開発を続けてもらいたい.

さて,今回から何回かに分けて筆者のPC履歴書と題し,今までのPCとの付き合いを振り返ってみることにする. これを読んで頂ければ,筆者がなぜ巷の流行と一線を画したへそ曲がりなPCを好むようになったのかが, おぼろげながらわかって頂けるだろう. 記憶を頼りに書いているので,マシンのスペックなどは誤りがあるかも知れない.

ときどき学生から,「いつ頃からパソコンを使えるようになったのですか?」と聞かれるが, 筆者が大学に入った1986年頃はパソコンはとても高価な代物で,"パーソナル" とは言え 個人で所有していたのは一部のマニアだけであった. 筆者は当時,コンピュータなどというものには全く興味がなく,また自由に使える環境にもなかった. せいぜい大学生協で共同購入したポケコン(プログラマブルな関数電卓のようなもの)に, 取説に書いてあったBasicのプログラムを入力して遊ぶ程度であった.

筆者が在籍した機械工学科では, 学部の講義に機械設計製図というものがある. 与えられた仕様に従って機械要素や機械そのものを設計するのだが, 便覧と格闘しながらTrial and Errorの強度計算を行い 各部の寸法を決定する作業は大変面倒なものであった. 学生に与えられる要求仕様は皆違うので,他人の結果を見せてもらうわけにはいかない. 徹夜したけどいい寸法が見つからない,と当時すでにパソコンを所有していた友人に話したところ, その友人は自分でプログラムを組んで計算したという. 実際,彼に自分の計算をやってもらい,一瞬にして正しい寸法が見出されたときには驚愕したものである.

初めてパソコンというものに触れたのは,大学4年になって講座配属されてからだ. 実験結果をグラフに描いたり,ワープロ(一太郎Ver.3)で文書を書いたりといった作業が最初であった. 当時使ったマシンは,研究室にあったNECのPC9801VXで,このマシンはどこの研究室でもよく使われていた. 筆者がいた部屋にあったPCはそれだけで,そのマシンを学部学生,大学院生,助手が共同で使っていた. CPUは確か80286でクロックは8MHzだったか10MHzだったか. ハードディスクはなく,FDDが2基搭載されている. 一方のFDDにMS-DOS ver.3が入ったディスクを入れてマシンを起動する. もう一方のFDDに自分のデータが入ったディスクを入れる. ハードディスクが無いマシンなどというのは今の常識からすれば考えられないが, その当時は逆にハードディスクが付いているマシンの方が珍しかったのである.

大学院時代に所属した研究室のPC環境は当時としてはかなり恵まれていた. 研究室のマシンはエプソンのPC98互換機(型番失念)でCPUは80286だったが, これに数値演算コプロセッサを搭載し,数値計算はそれなりに速かった. ハードディスクも大容量20MBのものが付けられていた. 実験室にはNECのPC9801DXがあった.CPUは80386の16MHzだったか. このマシンには数値演算コプロセッサが付いていなかったので,研究室の98互換機よりも 計算が遅かった.

当時の作業を回想してみる. このころは超流動ヘリウムの非定常解析に取り組んでいた. FORTRANで書かれた解析コードは,小規模なものなら98互換機で,大規模なものは 大型計算機センターのメインフレームの利用資格を申請してそちらで動かしていた. その頃はまだ学内LANが整備されていなかったので,モデムを介してダイアルアップで リモートログインし,データを転送していた. また,大変恵まれていたことに, 当時師事していた助手の方が核融合科学研究所の メインフレームの利用資格を持っており,そちらでも計算を走らせていた記憶がある.

解析結果はTurbo Pascal ver.3で三次元プロットのプログラムを書き,プロッターにハードコピーしていた. Turbo Pascalとの付き合いはこのときから始まる. 名前の通りコンパイルは一瞬で終わり,まるでインタープリターのような使用感であった. MS-FORTRANで数値解析のコードをコンパイルするのとはまるで次元が違った. このプログラムを書くために陰線処理などを勉強した. プロッターの描画は線を一本一本描いていくのんびりしたもので, メッシュが細かい計算の場合は一枚の図を描くのに一昼夜を要していた.

修士の後半では混合物の物性値を計算していた. 数値解析に比べると計算量は少ないが,やはり手元の286や386のパソコンでは少々荷が重い. かといって大型計算機を使うほどでもない. 当時は大型計算機の使用料が高く,それなりに価値のある計算でなければ使用許可がもらえなかったのである. 先生に直談判し,当時最新だったPC9821Asを買ってもらった. CPUはi486DXの33MHzで,確か150MBくらいのHDD内蔵だった. さらにS3あたりのウィンドウアクセラレータ(GPUのこと)が搭載されており,メモリを12MBに増設 すると発売されたばかりのWin3.1がそこそこに快適に使えた. このマシンに,当時まだあまり普及していなかったWordのver.5をインストールして文書を書いていた. WordでTTフォントを使い,DOSで一太郎を使っている友達に自慢していたものである.

このころはまだ486マシンが珍しかった. 486マシンでは,当時学生の間で大いに流行っていたカタリス(対戦型の テトリスみたいなもの)が速すぎてゲームにならなかった. そろそろ自分のマシンが欲しいと思い始めたが,デスクトップの本体とディスプレイで40万円コース, 在庫処分で安売りされていた白黒液晶の386ノートでさえ20万をちょっと切るくらいでは 貧乏学生だった筆者に買えるわけがない. 当時の筆者は企業奨学金とアルバイトで生活しており(授業料だけ親に頼っていた), レジャーや贅沢品の耐久消費財に回す金はほとんど無かった. ただし,大半は飲み代に消えていたという話もある.

企業に就職し,金銭的に余裕が出てくると再び自分のマシンが欲しくなってきた. 秋葉原に出向き(当時は横浜に住んでいた),数件の店を回った後勢いでPC9821Xsを買ってしまった. 今考えると愚かなことをしたもので,何と20回払いのローンで買ってしまったのである. CPUはi486DX2の66MHz,メモリは6MB,HDDは340MBで,プリンタ込み総額38万円くらいだったと記憶している. 店員から,「これからソフトウエアはCD-ROMで供給されるようになりますので,CD-ROMドライブ付きのモデルを 買っておいた方がいいですよ」と言われ,本当か? と思いながら店員の言うがままに CD-ROM付きモデルを買った.確かに店員の言う通りになったので,これはこれで良かった.

ちなみにこの一緒に買ったプリンタはひどいものだった. 型番は書かないが,個人向けカラーインクジェットの走りであり,その発色たるや,元々の色に 何か特殊効果を施しているのではと思わせるほどであった. 人物の写真を印刷すると,肌の色がまるで溺死した人のように紫色になっていたのを思い出す. 結局,このプリンタで年賀状や暑中見舞いを印刷することは無かった.

PC9821Xsを買った直後,富士通がDeskPowerシリーズでDOS/V機の安売り攻勢をかけてきた. 他のメーカーもそれに追随し, 9821Xsとほぼ同じスペックのマシンが20万前後の価格で売られていた. 学生時代に蓄積したノウハウが活かせるからと迷わず98を買ったが, Win3.1を使うのなら98とDOS/Vの違いは無いに等しい. そのことに気づいたときには時既に遅しで,目の前には20回払いのローンだけが残されていた.

企業に入ってからは仕事に追われ,プログラミングからは一時遠ざかっていたが,NIFTY Serveに加入したのを 機にGUIのプログラムを書いてフリーソフトとして公開したいと思うようになった. さっそくBorland C/C++を購入し,しばらくWindowsのプログラミングに没頭し, エディタやファイラーみたいなものを作ってみたが, ネット上での公開に値するものはなかなか完成させることができなかった. 確かにBC/C++のOWLはVC/C++のMFCよりも洗練されており,使い勝手も良い. が,それでも当時の筆者のスキルではとても人様にお見せできるようなプログラムを作ることはできなかった.

筆者のようなサンデープログラマーに広く使われていたのはVisual Basicであった. ネットで公開されているフリーソフトもVBで作られているものが多かった. しかし,Basicは初心者向けという感が否めなかったのと,実行にはランタイムライブラリを 必要とする点が好きになれず結局手を出さなかった.

そうこうしているうちに初代Delphiが発売された. Turbo Pascalに熱中した経験のある筆者は「BorlandがVBに対抗するRADツールを開発中.言語はPascalになる模様」という ニュースを聞いたときから正式発表を心待ちにしており, 発売されてスグに購入した. 初めてDelphiを使ったときの感動は今でも忘れない. メニューを持ったウィンドウにMemoコンポーネントを貼り付け,OpenFileダイアログを使って簡単なエディタが 完成したときには,その生産性の高さに驚いた. SDKベースのプログラムを書いたことのある方なら, RADツールを使わずにこのようなアプリケーションを書くのがどれほど面倒かがわかるだろう. Delphiでいくつかのアプリケーションを作りネットで公開すると,雑誌から転載依頼が来たり, ユーザからメールが来たりするようになり,ちょっとしたフリーソフトウエア作家気取りであった.

その後Delphiでの開発はアプリよりもコンポーネントが中心になった. アプリを公開するためにはきちんとしたヘルプファイルを作成しなければならないが,これがアプリ作成と同じくらい 面倒だったりする. Delphiの真髄はエレガントなオブジェクト指向言語にあり,そのポテンシャルを最大限に引き出す コンポーネント開発はアプリ開発よりもむしろ楽しい. また,コンポーネントを公開する際は簡単なreadmeだけを添付すればよく,公開の手間もかからない. さらに,ユーザが拙作のコンポーネントを使ったアプリを公開してくれれば,自分の分身を あちこちに作ったような気分に浸ることができる. 実際,筆者のコンポーネントを使ったアプリを作成したので公開しても良いか?というメールを多数頂いた. 検索エンジンで筆者の名前を検索するとそれらのいくつにヒットするようである.

さて,その後筆者は9821Xsを手放し, 全面的にDOS/V機に移行することになるのだが,そのことはまた後日書くことにする.


お問い合わせはメールにて: akasaka@klc.ac.jp

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